- 現在『就活生』
- 将来『銀行』志望
- 現在『銀行員』
- 近い将来『転職したい』
上記に絞って記事を書いていきたいと思います💡
初めまして静岡ジャイアンです。
静岡ジャイアン
実際に入社(入行)してみると・・・
自分が抱いていたイメージと、大きく変わる点が沢山ありました。
この記事を読んでいる方は、
そんな悩みをお持ちの方が多いと感じております。
実際にぼくも銀行に入社(入行)してみて、はじめて感じた戸惑いは数多くありました。
ぼくは、2014年4月から銀行員として働いておりましたが・・・
2018年9月に退職しました。
静岡ジャイアン
退職を決意した時の話しをすると…長くなってしまいますのでwww
下記にまとめておきました。
参考 銀行員から転職した話し静岡ジャイアンの転職
本記事の目次は下記になります
目次(クリックすると自動で飛びます)
銀行員の悩み
在籍していた4年半で感じた悩みはたくさんありました。
ざっくり大きくまとめると、下記2点です。
- 仕事「内容」について
- 人間「関係」について
どこの職場でもある、いわゆる悩みです。
銀行員の悩み・転職の記事は別でも書いてありますので、
一応こちらに載せておきます。
参考 銀行員の悩み・転職静岡ジャイアン
前述した通り、
今回は数多く経験した「悩み」の中でも、
その中から『キャリア』と『転職』を抜粋して記事を書いていきます。
この内容を書き進めて行く上で、まずは【銀行員の仕事内容】を紹介したいと思います。
銀行員の仕事内容
在籍していた4年半の間に体験した業務としては、
融資営業・集金、為替業務がメインでした。
ぼくが銀行員時代に体験した業務
①法人 / 個人への融資営業やソリューション提案
②新規先の推進や開拓業務
③既存客への集金・為替業務や融資営業など
いわゆる1支店の(渉外)営業担当者として、
ノルマを張られ、法人先や個人先への訪問を繰り返す毎日でした。
ジョブローテーションについて
銀行に入社してからは、
ジョブローテーションシステムにより様々な業務を経験しました。
日本の大企業は、銀行に限らず
基本的には『ジョブローテンション』システムを導入しており、
入社から1年〜3年の間に、転勤や部署移動を繰り返し行わせます。
適材適所に人員を配置するべく
各業務を一通り体験させる風習が根付いているからです。
しかし、ジョブローテーションで判断ができる1〜3年の間で体験できる業務は限られております。
銀行員の場合、
2〜3年に1度のペースで1度転勤が付き物の職業ですので、
せめて2・3個の業務しか体験できません。
ぼくが在籍していた当時の銀行は、
「新入行員」期間は入社から6ヶ月間(4月-10月)までは、
特に様々な業務を体験させてもらいました。
右も左もわからない新入行員ですので、
特にジョブローテーションで様々な業務が体験できるこの期間(1年目の4月-10月)でも、
せいぜい「3つくらいの仕事を覚えることが限度」でした。
いわゆる企業が定めた期間の中で、適材適所の人材を判断し配置させる。
そんな体制がとられているのが、銀行含め日本の企業の実態となります。
銀行員の場合、1番多いのが下記の表になります。
銀行員(ジョブローテーション後)振り分けられる3つの業務
- 法人担当
- ローン担当(リテール)
- 預かり資産担当
静岡ジャイアン
その後の自身の頑張りや、更なる人事選定により
経営(いわゆる人事部署)側に進む方や、海外支店勤務など、さらに細かく振り分けられていくのですが。
入社初年のぼくは、数ヶ月間のジョブローテーションの中で見極められ
法人担当に選出されました・・・。
ローン担当や預かり資産担当の様に、
銀行員とお客様(個人客)で1対1での仕事をしていく業務に比べて、
1つの会社の担当者となる訳ですから、
銀行員とお客様(法人)として1対数名での対応が強いられます。
また実際に契約した場合や日々の業務で動く額(お金)も大きい訳です。
その為、頑張れば目立った成績を残せることができます。
人事(本部)へ対しても、良い成績を残せればプラスのイメージをアピールすることができます。
ローンや預かり資産の担当よりかは、法人担当をしてみたかったぼくでしたので、
法人担当に振り分けられた時は、嬉しく感じました。
実際に大変なことは百も承知でおりましたが、嬉しさの方が大きかったです。
大変な分、やりがいややりきった後の成果は大きいだろうと。感じておりました。
しかし、
ぼくを待ち受けていたのは全くもって違った現実でした。
静岡ジャイアン
銀行員はよくも悪くも2〜3年の間に1度転勤がつきものです。
転勤するまでの期間でお客さんに信頼してもらい、成績を残していかないと行けません。
勿論、お客さまの利益(喜び)が第一優先なんですが。
既存客であれば前任者から引き継ぎ、関係性を構築して融資が必要なタイミングで融資を提案する。
新規客であれば、与信をしっかりと精査して、融資したお金を返済する力がある会社なのか、をしっかりと見極める力が必要でした。
どちらにせよ、お取引先の「お金まわり」「経理」という、
大事な『心臓部分』を握っているわけですので、非常にやりがいのある仕事でした。
大変な仕事ゆえに、もちろん感謝されることもたくさんありました。
感謝されたとき
- 考えて考え抜いた提案がお客様に認めてもらい、そのにより取引先の販路拡大や強固な経営基盤の一助になったとき
- どうしても必要な融資金額をなんとかお客様と協力して稟議書を作り、審査部の厳しい審査を通したとき
このような経験をした時は、
取引先の社長や経理の奥さんと一緒に泣いて喜んだりしたこともありました。
また取引先の会社で働く従業員のために親身になってあげたときなども、非常に感謝されました。
しかし、
ぼくの中で、銀行員としての生活(特に法人営業者としての生活)を積めば積むほど苦痛になってきたことがありました。
何が嫌になったかというと下記です。
- 仲の良いお客様に数字が足りない時に、(無理を言って)「嫌々借りてもらう」融資
- 銀行本部と現場とのあまりにもかけ離れた目線に翻弄され疲労される日々
- お客様(経営者)と銀行員(サラリーマン)の視野の違いから繰り広げられる押し問答
などが、浮き彫りになってきてしまいました。
銀行員という仕事は、(性格上)「合う人」と「合わない人」が別れる仕事です
先輩行員や支店長などの年配行員などと同行訪問をしている際に、色々と見えてきました。
「相手(お客様)の顔色を伺いながら(営業)お願いする姿勢」や、
月末や期末が近づいてくると、本部や統括する部署から、(嫌がらせかの様にw)数字の報告を求められます。
ぼくが感じたこと
・そんな無駄な仕事をするんだったら、皆でどうやったらお客様のためにより良い提案ができるのか?
・お客様がもっとハッピーに感じてくれるかを提案をするにはどういう提案(商品)なのか?
を考える時間に当てた方が良いのでは・・・?
「何のために仕事をしているのか?」わからなくなってきました・・・。
本来仕事というのは、お客様(相手)の「負」に感じている部分に自社の商品を提供(アプローチ)して、
感謝され、その感謝の気持ちである「ありがとう」の代わりにお金をもらうのが、本質だと感じておりました。
しかし、銀行の本質はそことはだいぶ乖離しておりました。
本部や経営陣の中では勿論違ったのかもしれませんが・・・実際に現場に伝達されてくる実態というのは
全く違ったというのが実態でした。
当時のぼくが感じていた疑問は下記になります
- こんなことをしたくて皆銀行員になったのか?
- こんなことをしながら自分の大切な人生の時間を使って生きていくのか?
- この経営をしている企業(銀行)に明るい先はあるのか?
などと、腹の底から疑問に感じる日々でした。
クニトミさんの面白い関連記事も載っておりましたので、シェアしておきます!
ぼくが銀行員を目指した理由
続いて、ぼくが銀行員を目指した理由について説明します。
自分で目指しておいて・・・なんで文句垂れて辞めるのか?
静岡ジャイアン
理由① お堅い堅実なイメージがあったから
僕が銀行員を目指した第1の理由は、世間体を気にしたためです。笑
銀行員といえば、一般的にはお堅い堅実なイメージがあると思いますが、
そのイメージに惹かれたのが、1番の理由です。
大学生のぼくは部活に打ち込んでおり、
社会人になってからも野球で飯を食べていこうと考えておりました。
なので、殆どと言って良いほど就活の準備はしてきませんでした。
大学で(体育会系運動部で)スポーツを続けてきた人なら分かるかもしれませんが、一般生との就活とは少し異なる部分があります。
僕の所属していた部活動では、4年生のある時期になると
OBの先輩方がグランド(練習場)を訪れては、
先輩が務める企業の仕事内容や、働く環境などの説明会を開いてくれる機会が定期的に定められておりました。
その中で段々と応募先を絞っていくというのが文化でした。
当時のぼくは就活はやらない(野球を引退してから)と決めていたにも関わらず、
OBの就活話を聞く機会というのは、そんなわけで自然と沢山頂きました。
大学4年生の夏の練習中。
ノックを受けていたぼくは、取れるか取れないか微妙なボールに飛び込んだ際に
腰を悪くしてしまいました。
前々からヘルニアの腰と首を庇いながらプレーをしておりましたが、
「流石にもう無理だな」という感覚が体全体に走りました。
スポーツ選手では1番大切な身体をを悪化させてしまったぼくは、
スポーツ以外の道で今後の人生食べていくことを決意しました。
そのため、勿論自己分析や対策等々もままならずに当時の秋採用枠があった銀行に応募をして、
なんとか野球部時代に築き上げた経験や話をうまく銀行に繋げて面接をクリアしていったわけです。
当時の僕は、漠然としたイメージで
「銀行員は一般的にお堅い堅実なイメージがあるし、もし入社できたら今後の人生も安泰かな!給料も悪くないし。そもそも就活自体もダメで元々なので、もし受からなければ来年真剣にやり直そう」
といった今振り返ると本当に恥ずかしい、でも逆にその力の抜けた状態が自然体と見なされ面接では随分と面接官に気に入ってもらいました(手前味噌ですがwww)
浅はかなノリで入社試験を受ける運びとなり、運よく合格する運びとなりました。
人生は「あそこでこういう選択をしていたら?」とか
「あの場面でこういう行動をとっていたら?」どうなっていたんだろう、
と考えることが多々あります。
しかし、今の自分の生活を認めてあげるのは、過去の自分の行動しかないと思ういます。
理由② TVドラマの半沢直樹に憧れたため
僕が銀行員を目指した第2の理由は、TVドラマの半沢直樹に憧れたからです。
ふざけている様に感じるかもしれませんが、、本気です。笑
ご存じの方も多くいらっしゃるとは思いますが、
堺雅人さん主演の半沢直樹シリーズは放送されてから瞬く間に
大ヒットドラマとなりました。
ストーリーは、日本の小説家で元銀行員の池井戸潤さんが書き記した銀行とそれに関わる方々の生々しいほどの物語。
大人気俳優の堺雅人さん演じるバブル期に、
東京中央銀行に入行したバンカー・半沢直樹の戦いを描く物語でもあります。
僕はこの半沢直樹シリーズにどっぷりはまってしまい、自分もこの様な厳しい世界で挑戦してみたいと思う様になってしまいました。
堺雅人さん演じる半沢直樹が、東京中央銀行の子会社・東京セントラル証券へ赴任した後に起きたある事件を描くスペシャルドラマとして、名台詞「やられたらやり返す!倍返しだ!!」を残し、視聴率が鰻登りでした。
僕は田舎の出身なので、地元に上場企業ほどの大企業もなく、周りにいる大人たちの多くは建設会社に勤めているので常時作業着を着ていたり、漁師・畑仕事をしている人たちも多かったので、ジャージ姿で仕事をしている人達を目にする機会が多かったのです。
そんな影響のせいか、社会人になったらスーツをビシっと着こなして、常に眉間に皺を寄せて、仕事ができるオーラを醸し出し地元にはいない様な大人になりたい!と思い、ドラマの半沢直樹(堺雅人さん)を見れば見るほど惹かれて行きました。
自分も銀行員になり同じ様な環境で挑戦したいと思うようになり就職試験を受けたのでした。
理由③ どの業種にもつながる知識が習得できると感じたため
ぼくが銀行員を目指した第3の理由は、
どの業種にもつながる知識が習得できると感じたためです。
やっと真面目な理由です。笑
実はぼくの実家は自営業で商売屋の息子として育ちました。
なので、家で仕事をしている両親や家族の姿を小さい時から長年見て育ってきました。
言い方は汚いですが、銀行ならいろんな会社(お客様)を見れる(勉強できる)ので、何か一つでも盗んでから家業に戻ってこよう。
そして祖父・父が頑張ってここまで大きくしてくれた会社を今よりも大きくしたい、とも思っておりました。
自分が銀行で働くことにより、
知見も深まるし将来家業に戻ってきた時にもその経験を活かせる!
そして会社を大きくしていくことが日本の経済成長のためにもプラスになる!
そう真剣に考えておりました。
ただ、僕の父親は非常に昔ながらの考えを持った男なので…
銀行に入った時に言われた言葉というのは、
「お前の人生なんだから、お前が自分で選んで銀行に入ったんだったら、家業のことは気にせず銀行で頭取目指してこい。全身全霊で真剣に銀行で仕事をしろ」
と言われました。
(後々転職をする際にこの言葉が凄く心に引っかかっていたのですが、、。それはまた違う章でご説明します。)
そのため、僕は銀行員としてのキャリアを形成しつつ、
(父の言う通り縁あって入社した企業なので自分が納得するまで、もしくはもうこれ以上嫌と心底思うまで銀行で頑張ってみて)、
もし戻りたいと思ったタイミングでその時に当初自分で掲げていた知識を習得できていたら思い切って実家に戻ろう、そう思って働くことにしました。
銀行で働く様になった僕ですが、
銀行の仕事内容は至ってシンプルに仕組み化されていました。
大手企業であれば当たり前のことですが、誰しもできる様に
(仮に人が辞めても替えの人間で補える様に、何も問題がなく対応できる様に)
仕組み化されておりました。
しかし同時に、
営業担当者としては1先ごとに提案を変えて提案力が非常に強く求められる仕事だなとも感じました。
取引先1先ずつ…提案内容や銀行との取引内容は勿論違うわけです。
ですので、対各担当先を見た時には、各々業務内容は変わってくるわけです。
取引先の業種が同じであっても、借入金額も違えば社員数も違う。
取引先から見たお客様への支払いフローや資金繰りなども100社あれば100通りあるわけです。
常に取引先を知る努力を繰り返しました。
結果、それがビジネスの視野が広くなり今までであったら気づかなかった事などにも気づける様になりました。
常に銀行業務だけに囚われず、広い視野で何事も俯瞰していくことが大事だなと感じました!!
理由④ 体育会出身者で活躍している人材が多いイメージがあったため
ぼくが銀行員を目指した第4の理由は、
体育会出身者で活躍している人材が多いイメージがあったためです。
上の理由でも少し書きましたが、僕は銀行に内定が決まる寸前まで野球でプロ(もしくはノンプロ)を真剣に目指して頑張っておりました。
僕が入社した銀行ではその年で入社するメンバーは約150人程いましたが、
正直誰にも成績では負けたくなかったですし、
競うことについては全部1位を目指したいと真剣に思っておりました。
体育会系で培った負けん気の強さでしょうか?
野球でプロにはなれなかったので、新しい道でプロになって実際にプロ野球選手になった友達に引けを取らない人生にしたいと思っていました。
僕が入社した銀行は割と文武両道で知られる高校出身の方が多くいました。
小さい時から知っていた人もいたので、
野球でも大学生の時は活躍されその後の人生も銀行で活躍している姿を見ることができました。
実際この環境を選んだことはとても刺激になりましたし、後々の自分の人生においてもよかったなと強く感じております。
自分と同じ様な境遇の人がいる会社はなんとなく居心地が良さそうな気がしました。
僕も頑張ればこの様な先輩たちと同じキャリアが積めるのかな?
今の僕のような、これからの後輩にも、仕事で憧れてもらえる存在になりたい。
そう強く思い入社を決めました。
理由⑤ 地域の方(お客様)に恩返しができると感じたため
ぼくが銀行員を目指した第5の理由は、
地域の方(お客様)に恩返しができると感じたためです。
当時の僕はこうも考えておりました。
銀行という機関は、
普通の人が普通に生活する上で絶対に携わる機関だと思ったので、自分が何か銀行に入り頑張ったり成績を残せば何かしらお客様の力になれるのではないか?
と。
なぜ、この様な考え方を持つようになったのか、
僕は自分なりに短い就活の時間で考えました。
時は高校3年生の春まで遡ります。
僕、実は高校3年生の春に選抜甲子園大会に東京の代表で出場しました。
その時に田舎の地元の方々がたくさん応援に駆けつけてくれました。
地元愛の強い地元の方々が、地元の高校ではなく東京の学校に通った半ば裏切り者の僕を、いくら甲子園に行くといっても、そこまで街の方々は歓迎してくれなのではないか?
と考えておりましたので、とてもびっくりしましたし、とても嬉しかったです。
大型バス7台をレンタルして甲子園球場にまで駆けつけてくれ、本当に沢山の方々に応援をして頂きました。
その経験から、いつかは僕のことを思って応援に駆けつけてくれた今日のこの方々の為に何か形として残る仕事や成績を上げたいと強く願う様になりました。
甲子園での思い出は僕が銀行への入社を決める一番の決定打であったといっても過言ではありません。
以上が当時僕が考えていた「銀行を目指した際の5つの理由」です。
本当はもう少し考えていたはずですが、その当時の毎日つけていたノートを家の中から探すことができなかったので、何とか頭を振り絞り当時のことを思い出して当時の中でも特に強く思っていたことを5つ説明させて頂きました。
実際入社したかった銀行に入ってみると、(自分で望んで入社したとはいえ)良かったことばかりではなく・辛かったことも沢山ありました。
こちらは違う章で説明しておりますので、是非一読して頂けますと幸いです。
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